「とげぬき」の由来

- 本尊は地蔵尊が授けた「霊印」の尊像-

本尊「延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)」はとても小さな「霊印(れいいん)」に現れた、お地蔵さまの「印像」です。霊印は1713年(正徳3年) 重病の妻の快癒を一心に願っていた髙岩寺 檀徒 田付又四郎の夢に現れた地蔵菩薩が、又四郎に授けたとされています。又四郎が地蔵菩薩のお告げにしたがい、霊印の地蔵尊像を1万枚の紙片にうつしとり、隅田川に流して念じたところ、翌朝 地蔵尊が妻の前で病魔を退治し、妻はみるみる快癒していきました。 正徳5年のこと、大名屋敷で針を誤飲した女性に、この地蔵尊像を写し取った紙札を飲ませたところ、 針が紙札の地蔵尊を貫いて出てきたのが「とげぬき」のはじまりです。 「霊印」は1728年(享保13年)に髙岩寺に奉納され、以来 本尊として信仰をあつめています。現在は髙岩寺本堂(地蔵殿)内の正面 須弥壇上に奉安されています。

さらにくわしく>>

元旦の本堂 須弥壇上に奉安されている本尊に献餅(けんびょう)




「御影」(おすがた・おみかげ)

- 本尊の分身分霊の札 -

江戸時代、毛利家の女中が誤って針を飲み、もがき苦しんでいるところに居あわせた僧侶が「地蔵菩薩の霊印」を写し取った紙札「御影」を飲ませたら、針が紙札の地蔵尊を貫いて口からでてきたのが「とげぬき地蔵」のいわれです。のちに髙岩寺の本尊になる「地蔵菩薩の霊印」は、3センチメートルにも満たない小さな「木のふしのようなかたちをした印」です。この印に現れた「延命地蔵菩薩の印像」が本尊なのです。 地蔵尊影をうつし取った紙札は本尊の分身分霊であり、「御影」(おみかげ・おすがた)として、本尊の霊前で信者らに授与されています。皆様の悩みや苦しみ、病気やケガ、心願成就の妨げになっている障害物を「とげ」として抜くちからがあるとされています。

敬虔な地蔵信仰とともに、 いまも「御影」を服用する伝統が信者らの間で続いています。 その一方で、「御影」を 足腰など、身体の痛いところに糊・テープ、湿布薬などで貼ったり、日常の生活用品、例えば、お薬手帳、血圧・血糖ノート、診察券 闘病日記 教科書 学習ノートや家計簿 愛玩動物の首輪などに貼り、お地蔵さまに見守ってもらうなど、信仰の多様化、おおらかさが広く受容されています。

さらにくわしく >>

 

本堂内で授与している「御影」の外観 本尊延命地蔵菩薩の写しが五体包まれている

 

 


【お願】御影「地蔵尊像」の印刷物・ネット上掲載はご遠慮ください(特許庁登録5119363号) 「地蔵尊像」はいわゆる秘仏として、当サイトでも公開していません


「萬頂山」「髙岩寺」の由来考察

髙岩寺の歴史は、被災と引越しの繰り返しでした。昔の記録はほとんど残っておらず、「萬頂山髙岩寺」命名に関する公式記録を保有していません。しかしながら、これらの由来は今のところ以下のように推察しています。

「萬頂山(ばんちょうざん)」由来考察

鎌倉時代後期に開山された髙岩寺の本寺、埼玉県熊谷市下奈良「集福寺」の山号は萬頂山であり、「本寺の山号」をそのまま受け継いだ、と考えられます。なお「萬頂」は大乗仏典の集成、『大正新脩大藏經データベース』ではヒットせず、出典となる経典ははっきりしません。

私見ながら「萬頂」は、霊峰富士山のような「独立峰の気高さ」に対するような、「萬(よろず)の山々が連なってそびえる壮大な自然のありよう」を示しているように感じます。北インドを飛ぶ飛行機の窓から見える「ヒマラヤの無数の山々」を想起させます。

「仏のおしえ」が北インドからヒマラヤ山脈をはじめとする「萬頂」を越え、はるばる日本にやってきた歴史がこの二文字に凝縮されているように感じ取れ、本寺様の山号をそのままありがたく頂戴した、と思う次第です。


「髙岩寺(こうがんじ)」由来考察

 荒磯(あらいそ)の
 浪(なみ)も得(え)よせぬ
 高岩(たかいわ )に
 かきもつくべき
 法(のり)ならばこそ
  『曹洞宗宗歌』大内青巒作詞・長妻完至作曲 より

根拠となる文献はありませんが、この「曹洞宗の開祖 道元禅師が鎌倉幕府 北条時頼に示したとされる短歌」(以下「本歌」)が有力な出典と考えられます。 上記のように、本歌は大内青巒(おおうちせいらん)によって『曹洞宗宗歌』の歌詞に組み入れられ、曹洞宗梅花流御詠歌『高祖承陽大師道元禅師 第一番御詠歌』にはそのままとり入れられています。 本歌は曹洞宗宗侶、檀信徒に広く認知され、唱和されており、宗門の皆様にとって高岩」はピン!とくる二文字です。

ちなみに上の表記は現代の『曹洞宗宗歌』の歌詞そのままですが、古い資料の表記を示しますと、


あら磯の 波もえよせぬ 高岩に 書もつくへき のりならはこそ
『建撕記』(けんぜいき) 宝慶寺本(*1)


荒磯モ波モ得寄ヌ高岩ニ攪ス可㋹付法ナラバコソ
『建撕記』(けんぜいき)小板橋本(*1)
 ㋹ 返り点


打ち付ける波(世俗の荒波・外の攻撃・内面の迷い)も届かないような高い岩(困難・神聖・さとり・修行道場)に、「掻き付く海苔(のり)」と「書き尽くすことができる(可能のベキ) 法 (ほとけののり・ほとけのおしえ)」が掛けられている、というのが通説です。一方、後世の人々にはそれぞれの思いを反映した解釈があり、さまざまな現代語訳が文献上・ネット上で散見されます。

しかし、その意を正確にとらえるには頭だけの解釈、文学的解釈にとどまらず、仏道修行の実践や宗教的体験も必要かもしれません。 禅仏教の表現としての「歌」は「禅問答」のごとし、でありましょう。「高岩」の意味するところは、文字を橋渡しにし、老古仏たちと「こころの席」をおなじうできるか、という超難問です。

高い岩」が修行の困難さやさとりを暗示する一方で、本歌の意図が、当山で実践される「地蔵信仰による現世利益」や、おだやかな「おばあちゃんの原宿」のありようと、どこで、どう、つながっているのでしょうか? 

「ミスマッチ」というご指摘は勘弁いただき、考えれば考えるほど不思議なご縁!と思うところです。

【参考】
1 『傘松道詠の研究』大場南北 中山書房 昭和45年
2  曹洞宗ホームページ SOTO-ZEN NET
3  つらつら日暮らしWiki 「傘松道詠」