歴史

髙岩寺略史

1596年 (慶長元)
集福寺五世 扶嶽太助和尚(ふがくたいじょ)が神田明神東側に開創

1657年 (明暦 3)~
大火で全焼 下谷車坂下に移転
 (現在のJR上野駅前・岩倉高校敷地)
初代「洗い観音」寄進

1728年 (享保13)
「とげぬき地蔵尊」霊印入仏

1891年 (明治24)
東京府告示により巣鴨に移転

1945年 (昭和20)
空襲により髙岩寺建物全焼
本尊霊印は西巣鴨清巌寺に安置

1946年 (昭和21)
仮本堂建設

1957年 (昭和32)
現在の本堂 地蔵殿 完成
4月14日 本尊霊印遷座

1959年(昭和34)
「とげぬき生活館相談所」開設

1972年(昭和47)~
十福苑 山門 庫裡 鐘楼 洗面所 会館 完成

1992年(平成4年11月27日)
初代洗い観音隠退 二代目洗い観音開眼

2009年(平成21)
本堂地蔵殿 文化庁より登録有形文化財に指定

2011年(平成23)
太助会館(信徒会館) 完成


初代洗い観音 参拝風景 撮影日時不詳

竣工した当時の髙岩寺 現本堂(撮影 昭和32年頃) 屋根瓦は簡素な「平葺」(ひらぶき)で現在の「本葺」(ほんぶき)とは異なる

 

 

おばあちゃんの原宿

とげぬき地蔵尊ならびにその界隈の代名詞「おばあちゃんの原宿」>>の由来は諸説あるようですが、1980年代後半には東京原宿の若者の賑わいになぞらえた「お年寄りの竹下通り」「じじばばの原宿」などの形容が発生していました。大きな転機となったのが1998年1月讀賣新聞朝刊1面の記事『いのちとこころ 第一部』の見出し「おばあさんの原宿」でした。

くわしく>>

 

転校生のお寺

髙岩寺(こうがんじ)は西暦1596年(慶長元年・安土桃山時代)に神田明神同朋町に開かれました。現在の千代田区外神田2丁目 神田明神社殿の右手後方にあたります。埼玉県熊谷市下奈良曹洞宗萬頂山集福寺>>五世 扶嶽太助和尚(ばんちょうざんしゅうふくじ・ふがくたいじょ)が開山と伝えられています。

ところが1657年(明暦3年)の江戸の大火事で全焼し、下谷車坂下に移転しました。現在のJR上野駅入谷口前、岩倉高等学校(台東区上野7丁目)があるところです。この「明暦の大火」が機縁となって初代「洗い観音」が寄進されました。その後1728年(享保13年 八代徳川吉宗の治世)に、のちの本尊「とげぬき地蔵尊」の霊印が入仏しました。享保17年刊『江戸砂子』には、髙岩寺のとげぬき地蔵が「はやり地蔵」と呼ばれ、「御影」を求める信者で賑わっていたことが記録されています。

しかし、1891年(明治24年)東京市の都市計画令によって江戸から遠く離れた巣鴨に移転させられ、参拝者は途絶え、寺の経営は破綻してしまいました。髙岩寺は「おばあちゃんの原宿」などと称され、昔から巣鴨にあったお寺のように思えます。が、実際は江戸の歴史に翻弄され、三百年の間に大火事と都市計画で2度引越を余儀なくされ、辛い思いもした「転校生のお寺」といえるでしょう。

さて、明治30年(1897年)に23歳の若さで晋山した巨海道雄大和尚(こかいどうゆう)は地蔵信仰の復活に尽力し、露天商らの協力を得て月三回の縁日を立案しました。時を同じくして山手線(1903)、都電(1912)が開通、参拝のインフラが整備され、下谷時代の「はやり地蔵」の信仰が、巣鴨で地蔵尊縁日とともに復活していきました。道雄和尚は企画広告の才覚に優れ、家族を動員し、雨が降ると巣鴨駅で髙岩寺名入りの傘を無料で貸し出し、暑い日には都電の座席に寺名入りの扇子をワザと忘れ置くように命じる、などの逸話が語り継がれています。

一旦は復活したとげぬき地蔵信仰でしたが、第二次世界大戦によって伽藍が全焼。本尊は霊験記とともに一時西巣鴨の清巌寺(せいがんじ)に避難していました。先代住職が焼け跡を耕し、大根を作って糊塗を凌ぐような時代でした。

戦後の復興と高度成長期を迎え、現在の本堂(地蔵殿)が昭和32年に完成。1957年(昭和34)境内に「とげぬき生活館相談所」を設立し、地域社会への慈善奉仕活動として無料相談事業を開始しました。悩み疲れて傷ついて、万策尽きてお坊さんに相談に行くと「修行が足りん!」と一喝(いっかつ)されるような時代。お寺で心理学の技法を応用して始められた相談事業は、当時とても画期的な取り組みでした。

1968年(昭和43年)には山手線、都電に加え、地下鉄都営六号線(現在の三田線)が開通し、参拝者の交通の便が飛躍的に良くなっていきました。1980年代には高齢者の参拝が年々増え、「おばあちゃんの原宿」というキャッチコピーが生まれました。門前では高齢者を対象とした巣鴨独特のシニア文化とお土産品「塩大福」「地蔵せんべい」「赤パンツ」「モンスラ」などが確立していきました。

 

板碑 (いたび弥陀三尊画像・庚申待供養結衆板碑)

十福苑1階に保管され、大香炉脇からガラス越しに観られる「板碑」です。髙岩寺開創の慶長元年(1596)よりも前、大永8年(1528)の刻字があります。髙岩寺が上野にあった頃、当時の髙岩寺住職 密嚴和尚の代に髙岩寺境内の池から掘り出され、のちに保護石にはめられました。一時北区昌林寺に保管されていたようです。

さて、道教に云う、「庚申の夜に睡眠中の人体から抜け出て、天帝にその人物の悪事を告げて寿命を縮める、とされる三尸虫(さんしちゅう)」が、体から出てこないように、集団で飲食しながら夜明かしをする習慣が「庚申待」(こうしんまち)です。

板碑には「奉庚申待供養」とあり、当時の庚申待の成就を記念した碑とされています。また、弥陀三尊(みださんぞん・阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)も線刻されており、多様な習慣が習合した証であるようです。当時の民間信仰のありようを伝える貴重な文化遺産と考えられます。豊島区文化財に登録されています。

十福苑1階大香炉横にある「板碑」拓本は豊島区立郷土資料館編『豊島の板碑』(豊島区教育委員会, 1989年) p.39より転載