おばあちゃんの原宿

「おばあちゃんの原宿」詳説 (約4千字)

愛称「おばあちゃんの原宿」の由来
  坂口順治 とげぬき生活館館長(当時)

サラリーマンは新橋、若者は秋薬原、お年寄りは巣鴨。マスコミ取材の定番だ。髙岩寺とその周辺が「おばあさんの原宿」と呼ばれるようになってから久しい。いったい いつ頃からこの愛称で呼ばれるようになったのか、また誰が名付けたのか。

長年 地蔵通り商店街の理事長をしているて木崎茂雄さんに尋ねたら「読売新聞の記者だよ」と即答してくれた。もう二十年以上も昔のことだという。調べてみると一九八七年(昭和六十二年)一月二十二日発行の一面の連載特集記事「いのちとからだ 第一部 長生き社会の健康」の最終回にあった。さっそくその記者を探すことにした。

また、それよりも早く言った人がいた、との情報があったので調べてみた。雑誌『クロワッサン』(マガジンハウス社発行)、一九八六年五月十日号に掲載されていた。ファッション評論家の川本恵子さんが「とげぬき地蔵の人出はまるで、お年寄りの竹下通りだけれど、見るものすべてが新鮮」という見出しで下町の面白さとお年寄りで賑わっている髙岩寺境内の風景を描写していた。ここでは竹下通りになっていた。

さらに、それよりも一年さかのぽった"一九八五年、髙岩寺庫理を設計した中山章氏がマガジンハウス社の取材を受けて「じじばばの原宿」というコピーで記事が出ているとのことだった。が、その出典は見出せなかった。

さて、お目当ての新聞記者を探してインタービューを申し込んだ。その人の名は乳井昌史氏。元読売新聞論説委員、文化部長。現在は早稲田大学大学院の客員教授。乳井さんは親切にも相談所を訪問して下さった。 乳井さんは、昭和十九年生まれ、青森県出身の読売新聞社の記者。当時は教育担当で「教育改革」で有名な名古屋大学の鈴木栄一教授と懇意であった。鈴木教授の実母が巣鴨に住んでおり、教授と巣鴨で会食することも多かった。それが「亀井寿司」通いのはじまりであった。

その後、厚生省の担当になったが、取材先は当時巣鴨にあった「国立栄養研究所」だったので、担当官とよく亀井寿司に立ち寄った。

乳井さんは大要つぎのように語った。

「たしかに私があの記事を書きました。『おばあさんの原宿』と活字になったのは、昭和六十二年一月の特集記事が最初であります。しかし、 最初に言ったのは地蔵通りの入り口にある「亀井寿司」の先代のご主人です。

はじめて亀井寿司の暖簾をくぐったのは昭和五十五年頃でした。先代の親父は恰幅もよく、馴染みの常連客との人情味あふれる交流が親密な雰囲気をかもしだしていました。それに値段が安いのでいつのまにか、帰宅の定番コースになっていました。

昭和六十年頃だったと思います。店で世間話をしているとき、亀井寿司の親父は「この地蔵通りの賑わいはお年寄りがますます多くなってきて、まるでおばあさんの原宿になっちゃったよ。巣鴨じゃ売れるのは、たわし、カリン、モンスラだよなぁ」と何気なく言ったのがピンときました。当時、原宿歩行者天国で流行した『竹の子族』や、竹下通りの賑わいを受けての言葉でした。

巣鴨の地蔵通りは「たわし(洗い観音の参拝用に用いる)、カリン(花梨、松岸で売っている)、モンスラ(越後屋などの衣料店で売っているおばあさん用の活動的スラックス。モンペとスラックスの合成語)」がよく売れていて、新聞記者の勘でこれは記事に出来ると即座に判断をしました。そして、当時一面トップの特集連載をしていた「いのちとこころ - 第一部・長生き社会の健康」に執筆することになりました。最終回の記事に「無心な祈りで安心惑、人気のとげぬき地蔵、ぼけよけ霊場」の小見出しに「おばあさんの原宿」と用いたのでした。

したがって、正確には命名者は亀井寿司の先代の親父で、私は新聞記者として言葉を広める役割をした、ということになります

とのお話であった。

その後、乳井氏は論説委員として医療·環境問題の担当になったが、ある日、ふと訪れた亀井寿司には「忌中」の知らせがあり、愕然とした。思い切って中に入り親父の遺体と対面した。自分でも気がつかないうちに、ご遺体の頬をなぜ、涙が溢れてとまらなかった。そのあと銀座に出かけたが、泣けて泣けてしょうがなかった。自分の両親の死でも泣かなかったのに「俺はこれほど泣ける男なのか」と思ったそうである。親父とは肉親以上の深い交流だったのでしょう。

後日、愛川欽也のテレビ番組「出没!アド街ック天国」巣鴨編を見ていると、亀井寿司の若旦那が出てきた。愛川さんのサイン色紙を手にして、大事にしていますよと若旦那が挨拶をしたら、司会者の愛川氏は絶句して涙をこぼした。先代の親父は、愛川氏が下積みの苦労した時代にずいぶんと面倒を見ていたようであった。(愛川著・文芸春秋社『泳ぎたくない川』(二〇〇四)。乳井氏によるその書評『キンキン母を恋うの記』『読売ウイー・クリー』)

数日後に亀井寿司で飲んでいると、欽也氏と奥さんのうつみ宮土理さんが白い花束をもってやって来て、霊前に供えた。そして、先代の親父が残してくれた人情味ゆたかな地蔵通りの人々との交流の想い出話をした。

こうしたエピソードを通して、巣鴨地蔵通りの人たちの人情、こころ豊かな交流が、「おばあさんの原宿」という愛称を生み出したようである。

医療や福祉が充実してきた現代に生きる高齢者たちは、さらなる健康を願い、こころの平安と豊かな人間交流の場をもとめながら、巣鴨とげぬき地蔵に集って来る。町の賑わいは、身と心のとげを抜きたい人たち、こころ豊かに過ごせる人々によって今日も活気に満ちている。



 讀賣新聞
『いのちとこころ 第一部』
- 長生き社会の健康 -
(乳井昌史記者)

”おばあさんの原宿”

東京・巣嶋では、タワシと花梨(かりん)、それに「モンスラ」がよく売れる。

「とげぬき地蔵」のある髙岩寺の門前に、昔ながらの生活用品、食料品、衣料品店が二百軒ほど並ぶ商店街。毎月四の日の縁日には高齢者が詰めかけ、若者たちの向こうを張って、いま、”おばあさんの原宿”と呼ばれる。

寒さが一段と厳しかったこの十四日、善男善女の中に、板橋区徳丸からバスと地下鉄を乗り継いで来た八雲井ことさん(八〇)の小柄な姿があった。「心と体のとげ(病)を抜く」という秘仏の地蔵尊に代わって、本堂わきで「洗い観音」が、ことさんたちを迎える。洗い清めれば病気や痛みが消えるといわれる観音さま。買ったばかりのタワシを手に、列の後ろに並ぶこと約一時間。順番が来ると、ひしゃくで水を掛けながら、洗い観音の頭と腰を丹念にさする。

御利益

「よく眠れますように、腰の痛みがなくなりますように」ーーつぶやく声が、呪文(じゅもん)のように間こえる。

洗い観音をさすった人びとの波は門前へ。ゼンソクによいという花梨は、全国の消費量の約半分がここでさばかれる。もんぺをスラックス風にした「モンスラ」も人気で、年間五千着売れる店もある。信者は関東地方に多いが、最近は北海道や九州から飛行機で来る人もいる。この十年足らずの間に、参拝者が急増、近ごろでは縁日の人出は四、五万、今月四日の「初地蔵」には十一万を数えた。

ことさんが巣嗚に来るようになって、もう六十年近くになる。父が胃ガンと宣告されてからだが、当時は縁日でも参道で人とぶつかるようなことはなかった。その父が持ち直した時と、長男が肺炎で医師から見放されながら回復した時には、観音さまに救われたと、いまも思っている。

最新医学に欠けたもの

若いころ、水戸市の病院で看護婦を十六年間つとめたことさんは、父親は胃カイヨウだったのだろうし、長男はたまたま回復期にぶつかったのだろうとみる冷静な目も持っている。

それでも観音さまにすがりたくなるのは、「身内が健康を損なったり、自分の体が衰えたりすると、やはり何かに手を合わせて祈りたくなる」ためだ。「父や息子のことを祈りながら、実は私が支えられていたのでしょうね」。以来、ことさんは月一回の巣鴨参りを欠かしたことがない。

高齢者が健康を求めて集まるのは、巣鴨に限らない。二年前、大阪府と和歌山、奈良両県にある真言、浄土、臨済各宗の二十四の寺が手を結び、「ぼけよけ二十四地蔵尊霊場会」を作ったが、会の事務局のある真言宗.禅林寺(和歌山県海南市)だけでも、参拝者は年間三万人。

ほほ笑むおじいさんとおばあさんを足元に配した高さ一・八メートルの地蔵がそれぞれの寺にまつられ、新しい霊場巡りとして人気を集めている。

また、大分県天瀬町の高塚愛宕地蔵尊には、高齢者を中心に無病息災を願う二百万もの人びとが、毎年、三百二十段の石段を登ってやって来る。

現代の医学に心が欠けていると指摘し続ける日野原重明・聖路加看護大学長は、こうした現象について、「医学が専門分化し、医師は目の前の患者が人間だということを忘れ、病巣しか見なくなっている。こんな状態が続く限り、人びとは歴療の外に心の健康を求めていくだろう」と見る。

石で造られた巣鴨の洗い観音もおびただしい数の〈健康願望〉を一身に受け、いまでは目も鼻も口も擦り減り、法衣の輪郭までおぼろげになっている。かすかに笑みをとどめたまろやかな頻。「そのお姿を拝み、また元気で会えたと思う気持ちによって、ボケないでいられる。それが何よりのご利益」と、ことさんは言う。

昔とは比べものにならないほど栄養状態が向上、医療制度も充実した「長生き社会」で、健康不安と同居する現代の高齢者たち。それは、健康に対する考え方が変わってきたためなのだろうか。それとも、やはり〈何か〉が欠けているためなのだろうか。
『讀賣新聞』朝刊1面 1998年1月22日号


 

以上のテキストは『とげぬき相談五十周年記念』P.16-18
平成21年とげぬき生活館発行 絢文社より転載しました

2009年5月、とげぬき生活館館長 坂口順治氏による乳井昌史氏インタビューと掲載許諾を得た讀賣新聞記事です。現在では不適切とされる表現もありますが、原文通り引用しました。