たぬき→ 三ツ目小僧→ 小僧稲荷

 

「高巖寺小僧 (こうがんじこぞう)」  980字

 下谷車坂に、高巖寺(*1)と云ふ大きな寺があつた。岩倉學校(*2)のあつた所が即ちその寺跡である。この寺に古狸が住んで居つて、小僧に化けては人を誑かすので、俗に高巖寺小僧と云つて、附近の者は恐れをなし、寺内に祠を建てゝ神に祭つたが、お狸様もおかしなものだと云ふ所から、小僧稲荷と名をつけて、稲荷様にしてしまつた。三十年許り以前に寺を巣鴨町二丁目二十三番地(*3)に移轉するに當り、この稲荷様も、同時に移轉し、今は巣鴨の小僧稲荷でなか/\巾をきかしてゐる。

 このお狸様は、以前隨分暴威を振つて、人を惱ましたものだ。今に下谷邊の古老の一つ話になつてゐる。高巖寺が越さぬ以前、まだ上野停車場の出來ぬ前までは、住職の替はる度毎に、狸が姿を本堂に現はしたものだとの事だ。

 今を去る百二十年前のこと、此の寺に道德堅固の和尚があつて、葷酒山門に入るを許さず、深く座禪を修じ、妙法の奥儀を究めるのを樂しみとして居つた。和尚が毎朝お經を上げる頃になると、一匹の狸が本堂に來り、和尚の讀經を聽くので、和尚いた<此の狸を愛し、油揚や豆腐などを與へ、寺内に住むことを許すと同時に、鶏の骨や馬の骨の様な不淨物を境内に入れることを戒めて置いたのである。和尚が死んで次の和尚の代になると、境内が荒れて不淨事が多いので、狸が之を憂いたものと見え、寺の庭隅や門前の邊りに塵芥を捨てたり、小便でもしようものなら、必ず狸に不吉の事をされるとしてあつた。

 昔は高巖寺の前は道路を隔てゝ巾二間深さ六尺許りの大溝があつて、溝に添ふて寛永寺の末寺が七八ヶ寺並んであつたものだ(*4)。他所のものが知らずに、夜分小便でもしたものなら、三つ目小僧が、大きくなつたり、小さくなつたりして出る。夫れかと思ふと大提灯が宙にぶら下つて、消えたり點いたりして動き出す。恐ろしまぎれに逃げ出すとキツト大溝へ投り込まれて、怪我する者も尠くはなかつた。中には物好きに、今頃の若い者が、狸に馬鹿されるとは何の事だ位で、面白半分に立小便でもした連中は不思議にやられる。泥だらけになつて、泣き面で溝から這上ると云ふ様な事が始終あつたものだ。であるから附近の者は、朝起きると第一着に門前を掃除する、境内を掃き淨めると云つた様な譯で、寺内は塵芥一つなかつた。高巖寺の引越さない前は、狸に誑かされた話は時々あつた。今も車坂邊の老人の、記憶に殘つてゐる話である。

『江戸傳説』「高巖寺小僧」P79-81 佐藤隆三 坂本書店 大正15年

1 高「巌」寺は誤りですがそのままにしています。
2 髙岩寺の旧境内地は現在岩倉高等学校になっています。
3 現在の髙岩寺の旧番地として正確です。
4 JR上野駅東北新幹線のプラットホーム付近は寛永寺の塔頭寺院が並んでいました。

 

お寺に鳥居とお稲荷さま?

奈良時代には大仏造立による鎮護国家、明治には国家神道の宣揚があったように、宗教施設はその時々の政治に大きく影響されてきました。しかし、国内にはいまなお「神護寺」「四天王寺」「観音神社」と呼ばれる神社仏閣があり、神様を祀る寺院、菩薩を祀る神社はめずらしくありません。京都東山には地蔵尊を祀る神社もあります。私たちは元来神仏を差別することなく、おおらかな道筋を辿りながら、しあわせを祈願してきたように思われます。

髙岩寺が所属する曹洞宗には稲荷信仰を大切にしている寺院が少なくありません。愛知県豊川市の通称「豊川稲荷」は千手観音を本尊とする妙厳寺という禅寺ですが、お稲荷様の神前で仏教僧がお経を唱え、ご祈祷法要をおつとめしています。

さまざまな神仏への信仰を通して身心を清め、現世利益をいただくことができれば、それはとても幸せなことと思う次第です。