初代洗い観音
昭和18年『武藏野風物』寫眞集 p.110
福原信三(資生堂 初代社長1883-1948)編 より

巣鴨驛から板橋街道(*1)を六七丁行くと、右手に高岩寺といふ寺がある。こゝには有名な「とげぬき地藏」がある。この寺は明治二十一年(*2)下谷車坂から移轉したもので、此界隈に昔から今一體の「とげぬき地藏」があつたといふ記録はあるが、何處か行方も判らないといふ事だ。「とげぬき地藏」は由緒ある地藏尊で常に參詣人が絶えず、緣日の人出は東京隨一といはれて居る。

この寺の境内に石造觀音立像がある。此觀音像に水を掛け「たわし」で洗つて祈願をこめる處から、俗に洗觀音といはれて居る。頭が悪ければ頭、手が痛めば手を洗ふといつた風に、惡い處を洗つて平瘉を祈る譯で、平癒すれば御禮に新らしい「たわし」二つ奉納する事になつて居る。靈驗あらたかの由である。(澤邊四郎)

1 現在の巣鴨地蔵通り商店街 旧中山道。
2 明治24年の誤りですが、そのままにしています。

洗い観音ものがたり 1000字

夫婦愛と防災の象徴が億万の願いをかなえる

水を掛けて洗ったところが良くなる とされる「洗い観音」は、本尊とげぬき地蔵尊の「脇侍」(わきじ) ながら広く信仰をあつめています。しかし、初代「洗い観音」はもともと洗うことを意図した石像ではないようでした。江戸の三大大火のひとつ「明暦の大火(1657年1月18日 初観音の日!)」で妻を亡くした檀徒 屋根屋喜平次が妻の供養に造立 寄進した聖観音像(しょうかんのん)だったのです。本来は「防災の願いがこめられた夫婦愛の象徴」とされるべき菩薩像でありましょう。

ところが、いつしか参拝者が柄杓で水を掛けてタワシで洗うと、洗った場所が良くなる、という民間信仰が定着し、聖観音は俗に「洗い観音」と呼ばれるようになりました。下の写真のように洗って参拝する様式は戦前に確立していました。

後づけの解釈ではありますが、(1)大乗仏典『法華経』に登場し、水の徳を伝え、水を掛けて参拝する浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の信仰、(2)長野 善光寺の賓頭廬尊者(びんづるそんじゃ)に代表される「なで仏」の信仰、そして(3)観音信仰が融合し、このようなおまいりのかたちが形成されていったように思われます。

さて、硬い小松石で造られたはずの初代洗い観音は、長年の熱心な参拝によってひどく摩耗してしまったため、平成4年11月27日に隠退し、髙岩寺檀徒 故 中堀義江氏寄進 彫刻家 故 八柳尚樹氏制作による「二代目洗い観音」が開眼され、初代の跡を継ぎました。また、この時よりタワシのかわりにタオルや手ぬぐいを用いることになりました。実は初代の出自は長年不明のままでしたが、平成4年隠退の際に現れた基台の刻印から喜平次の名が明らかになったのです。

隠退した「初代洗い観音」は現在二代目後方の厨子に収められ、従前はほとんど拝観できませんでした。そこで現在は、毎月18日を「観音様の日」として、午前6時半の朝課で『観音経』を唱え、明暦の大火遭難横死者の供養をしています。正月18日の初観音では洗い観音の霊前で、2月以降は地蔵殿で『地蔵経』のあとに唱えています。

また、早朝から午後2時まで「初代洗い観音」を開帳>>しています。

洗い観音を洗う清水は、境内地下からくみ上げている地下水であり、お「地」蔵さまが授けてくださる慈悲のお水です。夏は冷たく、冬はあたたかく、定期的に検査し良水を確認していますが、念のため飲用はご遠慮いただいております。現在は午後6時に採水を停止しています。

映画『男はつらいよ』第1作(昭和44 1969年)では、車寅次郎が髙岩寺境内で舎弟 登と再開し、洗い観音に見守られながら登に啖呵売を指南する場面があります。

億万の手に清められる二代目洗い観音

毎月18日を「観音様の日」として早朝から午後2時まで「初代洗い観音」を開帳しています 水を掛けないようにお願いします