(4400字)
髙岩寺二十八世
大法規雄大和尚
(だいほう きゆう だいおしょう)
【はじめに】
他のページと重複する内容が含まれますが、独立した著作としてご笑覧くだされば幸いです。大法輪閣様・佼成出版社様の転載許可に深く御礼を申し上げます。
【本文】
東京巣鴨にある「とげぬき地蔵」は、正式には曹洞宗萬頂山髙岩寺(ばんちょうざんこうがんじ)というが、この山号寺号は、地元でも知らない人が多い。開創は慶長元年
(1596)で、現在の千代田区外神田2丁目(神田明神下)である。
慶長年間は、豊臣秀吉の死(慶長3年8月)、天下分け目の関ヶ原の決戦(慶長5年9月)、徳川家康の将軍就位(慶長8年2月)があり、日本の歴史が大きく動いた時節である。そして、家康は大城郭を建設、それが江戸を都市化するもととなったのであるが、江戸を都市らしくしたのは、大名屋敷と寺院・神社の建造である。
徳川家は増上寺(ぞうじょうじ)を菩提所とし、幕府は江戸内外の古い寺社に土地を寄進した。ことに寺院は、小田原や駿河などから移されたもののほかに、新しく開創されたものが多く、慶長年間から寛永年間にかけては、まさに建造ラッシュだったという。
さて、「火事とけんかは江戸の華」といわれるように、江戸は火事が多かった。270年ほどの間に、「大火」とされるものが80数回ある。中でも明暦3年(1657)の大火(振袖火事*1)は、その損害がけたはずれに大きい。寛永13年にやっと完成した髙岩寺本堂も、わずか20年余で焼失してしまった。
明暦3年1月18日の昼すぎ、本郷丸山町の本妙寺(法華宗)で、女性の供養にと振袖を焼いたことが失火の原因とされてきた(*1)。この日は北西の風が強く、目をあけて歩けないほどであったという。火は本郷の台地をひとなめにし、下町へ移った。南は京橋、東は深川あたりまで燃え広がったが、神田一帯は焼け残っていた。
しかし、明けて1月19日、今度は小石川と麹町から出火、このあたりはすべて焼野原となった。焼失した大名屋敷は500あまり、神社仏閣300あまりといわれ、江戸城天守閣が着火し、二の丸、三の丸も焼けた。火事の死者は実に10万2千人を数えたのである。
この火事で建物を失った髙岩寺は、間もなく下谷屏風坂下(したやびょうぶざかした 現在の台東区東上野7丁目)に移転する。
髙岩寺が下谷に残した遺跡が最近あらたに発見されている。東北・上越新幹線は、大宮駅を始発として昭和57年の6月と11月にあいついで開業した。さらに上野駅を始発とするため、駅東側で地下ホームの工事をしていた時のことである。工事現場から髙岩寺
に電話があり、御遺体を納めた棺がいくつか出土したから供養してほしいという。工事現場がかつて髙岩寺の墓地であったことは、台東区教育委員会に確認したとのことであった。そこで現場に急行し供養の儀式をとり行った。現場は岩倉高等学校の校舎の真下。先生、生徒たちが窓に鈴なりになって見物していた。
髙岩寺の下谷移転から6、70年経た頃、髙岩寺の本堂も傷みはじめ、その修復工事の費用を得るため、檀家信者に「百万人講」という志納(しのう)の募集が始められた。その時、田付又四郎という篤信者から、一冊の「霊験記」(れいげんき)が献納された。この「霊験記」が髙岩寺の進路を大きく変え、発展のもととなった。火事でほとんどすべての古記録を失ったこの寺にとって、この「霊験記」は現存する唯一の寺宝である。その内容は要約すると次の通りである。
---- 「霊験記」抄 ここから ----
私の妻は常に地蔵尊を信仰して年久しくなる。ところが正徳3年(1722年、七代将軍家継の世)5月1日より重い病気になった。下痢をし、また便秘となって、腹はふくれて石のように固く、手足は細い竹のようにやせてしまった。
医師の努力のかいもなく、7月には回復の望みもうすくなってしまった。妻は私に「私の生まれた家には怨霊(おんりょう)があって、女はみな25歳までしか生きられないと父母が話しておりました。私もあの世へいく時を待ちます」といった。
私はつくづく思った。人間の寿命というものが天の定めであるならば、これはいたしかたがない。しかし、怨敵(おんてき)のために苦しんで死んでいくというのであれば、これは神仏の御加護を祈ることもできよう。この上は、妻が日頃信仰している地蔵尊の御加護を祈るしかない。
一心に祈って、しばらくうとうとしていると、夢の中に一人の高貴な僧があらわれ、「私の形を一寸三分に彫刻して河水に浮かべなさい」という。私が急に彫刻することはとてもできかねる旨答えると、「では、お前に印像を出現させてやろう」といわれ、夢からさめた。不思議に思って、まだ朝暗いうちであったが起きてみると、枕もとに木のふしのようなものがあった。よく見ると平らなところに地蔵菩薩の尊像があった。
これは正しく夢に見たことなので、地蔵尊像に印肉をつけて1万体の印影(現在の「御影」おすがた・おみかげ)をつくり、両国橋から南に向かって、一心に祈りながら河水に浮かべた。
その日の夜、病人が私を呼ぶので急いでいってみると、「今、夢がどうかはっきりしないのですが、年の頃24, 5歳の男の人が枕もとに立っていました。膝まで小袖を着て手に長い棒と籠のようなものを持っていました。そこへ香色(こういろ
やわらかい黄色)の袈裟をつけた僧があらわれ、その男に早く立ち去るよう告げ、蚊帳(かや)の外に引き出し、錫杖(しゃくじょう)で背中をどんとつくと、男は戸板に倒れかかって消え失せてしまいました」といった。
私は、末法の世といえども、信心によって感応があたえられたことをここに見て、あまりのありがたさに涙がこぼれた。そして翌日より妻の病気は次第によくなり、10月中旬には床をはなれ、以後は無病になった。
右にあらわした霊験は家内のしもじもまで知っていることで、いささかのいつわりも、かざりもない。
この霊験の話を山高氏という人の家でしていると、一座の中に西順という僧侶がいて、深く感心し、その「御影」をぜひほしいという。私は懐中にもっていた御影2枚を与えた。
この僧侶は毛利家に出入りしていたが、あるとき御殿女中のひとりが、折れた針を口にくわえているうち、うっかり飲みこんでしまった。針は、のどに立ち、腹の中にはいっていって、大いに苦しんだ。そこで、西順が「ここに霊験あらたかなる地蔵尊の御影がある。頂戴しなさい」と一枚を水でのませた。
しばらくすると、女中は腹中のものを吐いたが、その中に地蔵尊の御影があった。そして四分(1センチ2ミリ)ほどの「針が御影を貫いていた」ので、一同不思議の感にうたれた。
この霊験は、私が直接見たものではない。ただ、西順がわざわざ私のところに来て、絶対にまちがいないと誓ったので、ここに書きいれるものである。
今、髙岩寺は本堂がこわれ、その修復のため「百万人講」をはじめられた。そこで、多くの人にこの「御影」をほどこし、本堂の修復が早くすむようにと、はじめて和尚(八世蜜巌寂妙・みつがんじゃくみょう)にこの不思議な事実を話し、その由来を書いて、霊印とともに寄付し奉るものである。
---- 「霊験記」抄 おわり -----
これは、田付又四郎氏が、享保13年(1728年 八代将軍吉宗の治世)に髙岩寺に寄付した「霊験記」の要約である。髙岩寺は「霊験記」とともに献納された「霊印」をのちに宮殿におさめ、本尊の釈迦如来とは別にお祀りした。一方、御影を作って信者に頒布した。
これより、この秘仏地蔵尊の信者は急速に増加の一途をたどった。それは、田付氏の「献納」からわずか4年後の享保17年(1732)に成立した地誌「江戸砂子」に「萬頂山髙岩寺。はやり地蔵有り、尺ケ一寸斗カリの小仏也(たけいっすんばかりのこぼとけなり)」とあることによっても判る。
また、宝暦6年 (1756)には「髙岩寺門前」ができた。さらに、髙岩寺には灯明を供える習慣があり、今では、仏壇に供えるのにしか用いない小さな「髙岩寺」と呼ばれるローソクが造られ、参拝者のために門前で売られていた。
「とげぬき地蔵」の呼称は、嘉永3年 (1850)に成立した「武江年表」(ぶこう)に「世にとげぬき地蔵といふ」とあるので、この頃はすでに一般化していたものとみえる。
さて、明治の世となり、明治22年(1889)、東京府は「告示第37号・東京市区改正設計」によって、寺院墓地を東京市15区外に移転させる方針を明らかにした。これによって、髙岩寺は、この告示後わずか2年の明治24年5月に現在地の巣鴨に移転してしまった。
当時の巣鴨は一面の畑で、人家もまばらだった、その多くは農家で、明治36年に山手線巣鴨駅が開通したとき、その汽笛の音に驚いて、ニワトリが卵を産まなくなったという苦情が出たというから、移転当時の髙岩寺の環境が想像される。
明治24年、住職白浜大愚は、9月24日に入仏式を修行し、10日間の「秘仏開帳」を行った。しかし、交通の便もなく、下谷時代のような「はやり地蔵」とはならず、寺の収入は激減した。それから4年後、この住職は死去。そのあとの二十二、二十三世住職は、ともに経営不振のため、夜逃げのように当寺を去っている。
その後、この寺は一時「無住」であったが、明治30年10月、来馬道雄(筆者の祖父)が23歳で住職となった。道雄は寺を「とげぬき地蔵」の〝メッカ〟として再建する方針に徹底した、その再建努力をバックアップしたのが、明治36年の山手線の開通、明治44年の王子電車(現、都電荒川線)の開通、さらに大正2年の市電の巣鴨2丁目までの開通である。
道雄は「とげぬき地蔵」と大書した傘を多数作って、にわか雨の時、巣鴨駅に寄託した。また、縁日を月3回(四のつく日)にふやし、縁日には露店を誘致した、このような経営努力が「はやり地蔵」をみごとに復興したといえる。戦後一時衰えた参道も、現在は隆盛をみせているが、その基礎がこのときに固まったといってよい。
通称「地蔵通りと呼ばれる旧中仙道には、商店がすきまなく立ち並び、都内屈指の一大商店街となっている。とくに縁日は朝早くから活気があり、大売り出しをする商店も多く、参詣者や買物客が絶えまなく続く。
この隆盛は、古来無数の人びとの努力が、町の発展という一点に結集された結果であるが、何か目に見えぬ不思議な力がそこに働いて、町を動かしてきたにちがいない。
今日も多くの信者が参詣に訪れている。彼等の信仰の対象は本尊の延命地蔵菩薩であり、それははっきり知られている。無条件に信じ、礼拝(らいはい)する。これが帰依(きえ)ということにつながるのだと思う。地蔵菩薩に真に帰依している人びとは本当に幸せな人びとである。
また、病気平癒や開運などの利益(りやく)のために参拝する人も多いが、その祈りによって心身が清められ、菩薩を思念し、敬虔(けいけん)な心を捧げることによって、やがて帰依の心をおこすようになることを願っている。
(おわり)
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【解説】
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【註】
*1明暦の大火は、本郷丸山の本妙寺における「振袖供養」の火が強い北風にあおられて本堂に着火し、周囲に燃え広がった(振袖説)、とされてきましたが、本妙寺は火元の責任を全く問われていません。本妙寺隣の老中阿部忠秋屋敷の失火を本妙寺が引き受けた(火元引受説)、幕府反逆分子による放火、幕府が都市計画推進の為に計画的に放火した(幕府放火説)、などの諸説があり、真相は不明とされています。
【引用】
初出
連載 お地蔵さんが居るじゃないか
題「巣鴨「とげぬき地蔵」の由来」
来馬規雄 著
月刊誌『大法輪』第59巻 平成4年6月号
大法輪閣 平成4年 p.174-179.
再掲
題「目に見えぬ不思議な力」
来馬規雄 著
単行本『お地蔵さまとわたし』より
佼成出版社 平成15年 p.90-97.
(2023年9月9日公開)